こじらせちゃった人のブログ

厨二病のその先へ。年々こじらせ具合を増していく薩摩男児のブログです。

こじらせた朝活は、リアルなTwitterだった。

2年前から毎週一回ずつ続けてきた”朝活”が今日で最後を迎えた。

ちょうど2年前の春頃、エクストリーム出社みたいな、
朝の時間に何か面白いことやりましょうぜ!
朝早くならみんなの予定が合うよね!
という雰囲気が流行っていて(僕だけかもしれない)

 

毎週7:30に大学の一室に集まって、最近のニュースや気になるテーマについて語り合ったり、刺さる動画見たり、「武士道」「論語」みたいな重ための本読んだり、本の紹介し合いをキラキラとやったり、日頃なかなかできないようなことを朝の1時間でみんなでやってしまうという会だった。盛り上がって2時間以上語らったときもあったかもしれない。

 

カバディにハマっていた僕がインド哲学にハマっている友人と謎の意気投合をしてスタートした朝活だったが、
朝の7:30から、しかも学生がそんなに集まるわけもなく、多いときは8人、少ないときは1人という(え?)ふわふわしたイベントとして、毎週毎週飽きもせず続けていた。

 

最初は本当全然人が来なくて、参加者はカバディ野郎、インド哲学ガール、ウナギストの3人みたいな、もうしょーもない連中(笑)ばかりで、言いたい放題語り合っていたんだけれども、

 

徐々にいろいろな人たちが来るようになって、そのために毎回ちゃんとしたテーマを考えよう!となって、新渡戸稲造の「武士道」や四書の「大学」「中庸」「論語」とかを読んだりしだした。明らかにテーマ性に偏りがあるので、結局濃ゆい人ばかりが来ることになった。

一度だけ体を動かそう!となって、紐を持ってきて「いろはにほへと上下真ん中どっち?」遊びをしたこともあったけど、僕が転んで頭を打ち付けた記憶しかないからたぶんあの衝撃で記憶が飛んでるんだと思う。

↓最後の朝活で話した内容の一部。こんな流れを違うテーマで1時間で3〜4回くらいする。わりとこの回は浅め。テクノロジーはどこまでいくか?非言語コミュニケーションって何か?みたいなもっと込み入った内容ものが多い。

 

 

留学中の香港からスカイプで参加するやたら元気な学生や、
facebookイベントを公開しちゃったがために紛れ込んだ他大生、
東京からたまたま来福してた爽やか学生がわざわざ参加したこともあった。
社会人も何回か来てくれて、どんな活動でも続けていれば不思議な広がり方をするもんだなぁと感心した。
僕も朝活で知り合った面白い友人がたくさんいて、そういう類友的な場にもなれていたのかもしれない。

 

そんなゆるゆるした活動だったから、最後の日も特に何か最後らしいものがあるわけでもなく、いつも通り語らって解散したわけだけれども、

僕にとって、この毎週一回の朝の時間が、思ったよりもとても大事な時間になっていたのかもしれないと気がついたので、ちょっと書いてみる。

 

僕のTwitterを見てもらえればわかるんだけれど、僕はだいぶ”こじらせている”。

思考した内容のメモ代わりに呟いているので、僕をフォローしている方のニュースフィードではだいぶ浮いていると思うし、最近は頻繁に使っているのでマジで迷惑だったらフォロー外してください(笑)

 

 

 ↑こういうことを延々と書き続けるか、ニュースに対してひたすら斬り込んでいることが多い。
おそらく厨二病という呼び方はふさわしくない。中二のときよりも今の方が断然こじらせていて面倒臭いし、インプットの量・質やアウトプットの表現力が高まっている分、余計に扱いづらいことになっていると思う(笑)。中二ときの僕はひたすらノートにポエムを書いていたので、厨二病とはたぶんそういうアレのことだ。

 

これは本当に何の他意もなくて、ただただ日頃考えていることを言語化しているだけなのだけれど、改めて言語化したものを振り返ると本当に病んでるというかこじらせてるなーと、自分でも思う。
誰か個人を批判することは一切ないんだけど、基本的に、世の中に対して世界に対して不満や公憤みたいなものを持っていて、そういうのに向かって物申す文脈でつぶやいている。
いっつもこんなことばっか考えてるんだよね。僕は。

 

で、朝活の話に戻すと、

朝活の場は僕にとってリアルTwitterだった。

日頃思っていても考えていても、なかなか人に話せないような気づきや疑問を、わりと体面を気にせずに語り合える場になっていたなと。

その週に思考した内容をTwitterで言語化しといて、次の朝活で投げかけてみる、みたいなやりとりは結構多くあった。

 

その度に、自分では考えつきもしない意見が返ってきたり、あるいは自分よりも深い知識や思考で返されたり、新たな発見がたくさんあった。これは朝活がどうのこうのではなくて、あの場に集まってくる人たちがこんなテーマでわいわい議論できる変な人たちだったからなのだと思う。

僕はわりと日頃から仮面を被って生きている意識があって、高校生のとき『人は誰しも仮面を被って生きている』というテーマで校内スピーチコンテストで全校生徒の前で発表したこともあるくらい。

そんなこじらせ野郎が考えているどうしようもない話を面白がって聞くどころか、もっとこじらせた意見で返してきたり、あるいはそんなのどうでもよくね?と一蹴されたり、仮面を被る必要性の迫られない場だったなーと思う。

 

そんな2年間の朝活で得られた新たな発見は実は数え切れないほどあって、人類の未来について悩んでいたときに朝活で進化論の真実を聞いて心底安心した話とか、いろいろあるんだけど、それはまた別の機会に書くとして、

今日は最後の朝活で気づいた、最大の発見を。

 

 

↑これを読んで「なんやコイツ?(笑)」って思った方は正常だと思う。どうかそのまま健全に純粋に生きていってほしい。そういう人が幸せに生きていくことが社会をよりよくしていくのだと思うし、余計なことを考えずに済むならきっとその方がいい。

ただ、もしそう思わなかった方や、あろうことか共感しちゃうような人は、ぜひ語り合いたいので今度天神の「風街」で珈琲でもどうですか?

 

僕は小さい頃から、みんなが当たり前だと思っているルールや常識に違和感を感じて生きて来たし、それを真正面から指摘しても潰されるだけだということも学んできた。”正しいこと”なんてこの世に一つもありゃしない、ってことに20歳くらいで気づいて、じゃあ自分がやりたいようにやるしかないと、そのためには”力”が必要だと、そんな気持ちで走ってきたように思う。

 

でも、たしかにそんなふうに違和感を感じて生きているし、大人たち(もちろん僕も大人)に物申したいことはたくさんあるし、人間ってどうしようもなく愚かだと思うんだけど、

そんな”こじらせちゃった”僕でも、自分の好きな大学院で学んで自分の好きな活動をして、気に入った人たちと気に入った場所で語り合って、それでいて毎日の飯にも困っていない。
僕のような人間は生きづらいコミュニティは確かに存在するけど、そうじゃないフラットなコミュニティに属することができているし、そういった世界を選ぶ権利と責任を僕は与えてもらっている。その自由がある。

 

これって、すごく素敵なことなんじゃないかって。

 

なんだかんだ結果的に好き勝手に尖りながら生きていける。これはとても素敵なことじゃないかと。

 

で、さらにね。

人間って、すぐに自分本位になるし、自分のことは棚に上げて他人の批判ばかりするし、思考が凝り固まって寛容さを失いがちだし、目先の利益ばかりに囚われるし、
それでいて、そんなどうしようもないけど賢しい連中が世間的には評価が高くて「え?」ってなることも多いんだけれどね。

 

「そんなもんさ!」って思おうと。

これは諦めでも妥協でもなくて、もちろん僕はそういうこの世の不条理を一個一個ぶち壊していきたいと決意を固めているんだけれども、

「そんなふうに不健全で不条理なことばっかりで、不器用な人たちが足掻きながらわちゃわちゃやってる、そのカオス感が面白いんだ!」って。

もうみんなが色々と理解しちゃって物事をわきまえちゃって、真っ当な言動ばっかりしてたら、それはそれでツマラナイよね!と。

 

わけわからんから面白いわけで、そんななかでわけわからんほどに尖って生きていけるのって、素敵だね!と。

 

...と、前向きな台詞を残しながらも、まだまだ世界に対して僕は物申していきたいし、だからって安全地帯から批判ばかりしている評論家にはなりたくはないので、「悩む前に行動!」「背負う覚悟を持て」の意識は常備していきたいと思ってるので、

今日からまた、

自分のやりたいように、背筋伸ばして歩いていくのです。