こじらせちゃった人のブログ

厨二病のその先へ。年々こじらせ具合を増していく薩摩男児のブログです。

自分の「欲しい」に本気で向き合った人だけが手に入れられるものが、この世界にはあるんだ。

「欲しい」って思う力、

本当に欲しいものを欲しい!欲しい!欲しい!って求める力。

 

これはすごく強い力だと思う。

 

大概の人は、

「欲しいけど、そんなに大変ならいいや。。。」

「そんなにがつがつ欲しがるとダサいし」

「まあ、別になくてもいいや」

 

とかとか言って、

つまるところ、

妥協する。

 

「わたしにはそんなことできるわけない」

「今のままでも十分だし」

「分相応ってものがある」

厳しく言えば、

自分の人生にも

妥協する。

 

「二兎を追う者は一兎も得ず」ということわざがある。

先人たちがことわざでこんな風に残しておいてくれたおかげで、

「本気で二兎を欲しがって本気で二兎を追う人」が少ないと思ってる。

これは残念なことだ。

 

一度でも死に物狂いで二兎を追ってから言え!と。

自分は挑戦してないくせにアドバイス鵜呑みにしてんじゃねえ!と。

声を大にして、そう言いたい。

 

強欲であれ、傲慢であれ、と言うわけじゃない。

 

先人たちの言葉には敬意を持って参考にするけど、

あくまでも参考に留まるものであって、

だいたいハナから信じちゃいけない。

 

「あれはダメ」

「それはやらない方がいい」

みたいな、ネガティブな言葉は特に無視しよう。

 

そんな老害たちの拘束なんて振り払って

あれが欲しい!

これが欲しい!

っていう自分の声に耳を傾けよう。

 

「欲しい」って思う力、

本当に欲しいものを欲しい!欲しい!欲しい!って求める力。

 

これはすごく強い力だと思う。

 

みんなが持ってるはずなのに、

大概の人が、早々に諦めて放棄してる。

 

欲しがって、手に入るまで死に物狂いで足掻き続けよう。

あの手この手で二兎を狙おう。罠を張って三兎目も捕まえよう。

そんなことできないって言われたら、その人にはできないだけだと気がつこう。

 

自分の「欲しい」に本気で向き合った人だけが手に入れられるものが、この世界にはあるんだ。

こじらせた朝活は、リアルなTwitterだった。

2年前から毎週一回ずつ続けてきた”朝活”が今日で最後を迎えた。

ちょうど2年前の春頃、エクストリーム出社みたいな、
朝の時間に何か面白いことやりましょうぜ!
朝早くならみんなの予定が合うよね!
という雰囲気が流行っていて(僕だけかもしれない)

 

毎週7:30に大学の一室に集まって、最近のニュースや気になるテーマについて語り合ったり、刺さる動画見たり、「武士道」「論語」みたいな重ための本読んだり、本の紹介し合いをキラキラとやったり、日頃なかなかできないようなことを朝の1時間でみんなでやってしまうという会だった。盛り上がって2時間以上語らったときもあったかもしれない。

 

カバディにハマっていた僕がインド哲学にハマっている友人と謎の意気投合をしてスタートした朝活だったが、
朝の7:30から、しかも学生がそんなに集まるわけもなく、多いときは8人、少ないときは1人という(え?)ふわふわしたイベントとして、毎週毎週飽きもせず続けていた。

 

最初は本当全然人が来なくて、参加者はカバディ野郎、インド哲学ガール、ウナギストの3人みたいな、もうしょーもない連中(笑)ばかりで、言いたい放題語り合っていたんだけれども、

 

徐々にいろいろな人たちが来るようになって、そのために毎回ちゃんとしたテーマを考えよう!となって、新渡戸稲造の「武士道」や四書の「大学」「中庸」「論語」とかを読んだりしだした。明らかにテーマ性に偏りがあるので、結局濃ゆい人ばかりが来ることになった。

一度だけ体を動かそう!となって、紐を持ってきて「いろはにほへと上下真ん中どっち?」遊びをしたこともあったけど、僕が転んで頭を打ち付けた記憶しかないからたぶんあの衝撃で記憶が飛んでるんだと思う。

↓最後の朝活で話した内容の一部。こんな流れを違うテーマで1時間で3〜4回くらいする。わりとこの回は浅め。テクノロジーはどこまでいくか?非言語コミュニケーションって何か?みたいなもっと込み入った内容ものが多い。

 

 

留学中の香港からスカイプで参加するやたら元気な学生や、
facebookイベントを公開しちゃったがために紛れ込んだ他大生、
東京からたまたま来福してた爽やか学生がわざわざ参加したこともあった。
社会人も何回か来てくれて、どんな活動でも続けていれば不思議な広がり方をするもんだなぁと感心した。
僕も朝活で知り合った面白い友人がたくさんいて、そういう類友的な場にもなれていたのかもしれない。

 

そんなゆるゆるした活動だったから、最後の日も特に何か最後らしいものがあるわけでもなく、いつも通り語らって解散したわけだけれども、

僕にとって、この毎週一回の朝の時間が、思ったよりもとても大事な時間になっていたのかもしれないと気がついたので、ちょっと書いてみる。

 

僕のTwitterを見てもらえればわかるんだけれど、僕はだいぶ”こじらせている”。

思考した内容のメモ代わりに呟いているので、僕をフォローしている方のニュースフィードではだいぶ浮いていると思うし、最近は頻繁に使っているのでマジで迷惑だったらフォロー外してください(笑)

 

 

 ↑こういうことを延々と書き続けるか、ニュースに対してひたすら斬り込んでいることが多い。
おそらく厨二病という呼び方はふさわしくない。中二のときよりも今の方が断然こじらせていて面倒臭いし、インプットの量・質やアウトプットの表現力が高まっている分、余計に扱いづらいことになっていると思う(笑)。中二ときの僕はひたすらノートにポエムを書いていたので、厨二病とはたぶんそういうアレのことだ。

 

これは本当に何の他意もなくて、ただただ日頃考えていることを言語化しているだけなのだけれど、改めて言語化したものを振り返ると本当に病んでるというかこじらせてるなーと、自分でも思う。
誰か個人を批判することは一切ないんだけど、基本的に、世の中に対して世界に対して不満や公憤みたいなものを持っていて、そういうのに向かって物申す文脈でつぶやいている。
いっつもこんなことばっか考えてるんだよね。僕は。

 

で、朝活の話に戻すと、

朝活の場は僕にとってリアルTwitterだった。

日頃思っていても考えていても、なかなか人に話せないような気づきや疑問を、わりと体面を気にせずに語り合える場になっていたなと。

その週に思考した内容をTwitterで言語化しといて、次の朝活で投げかけてみる、みたいなやりとりは結構多くあった。

 

その度に、自分では考えつきもしない意見が返ってきたり、あるいは自分よりも深い知識や思考で返されたり、新たな発見がたくさんあった。これは朝活がどうのこうのではなくて、あの場に集まってくる人たちがこんなテーマでわいわい議論できる変な人たちだったからなのだと思う。

僕はわりと日頃から仮面を被って生きている意識があって、高校生のとき『人は誰しも仮面を被って生きている』というテーマで校内スピーチコンテストで全校生徒の前で発表したこともあるくらい。

そんなこじらせ野郎が考えているどうしようもない話を面白がって聞くどころか、もっとこじらせた意見で返してきたり、あるいはそんなのどうでもよくね?と一蹴されたり、仮面を被る必要性の迫られない場だったなーと思う。

 

そんな2年間の朝活で得られた新たな発見は実は数え切れないほどあって、人類の未来について悩んでいたときに朝活で進化論の真実を聞いて心底安心した話とか、いろいろあるんだけど、それはまた別の機会に書くとして、

今日は最後の朝活で気づいた、最大の発見を。

 

 

↑これを読んで「なんやコイツ?(笑)」って思った方は正常だと思う。どうかそのまま健全に純粋に生きていってほしい。そういう人が幸せに生きていくことが社会をよりよくしていくのだと思うし、余計なことを考えずに済むならきっとその方がいい。

ただ、もしそう思わなかった方や、あろうことか共感しちゃうような人は、ぜひ語り合いたいので今度天神の「風街」で珈琲でもどうですか?

 

僕は小さい頃から、みんなが当たり前だと思っているルールや常識に違和感を感じて生きて来たし、それを真正面から指摘しても潰されるだけだということも学んできた。”正しいこと”なんてこの世に一つもありゃしない、ってことに20歳くらいで気づいて、じゃあ自分がやりたいようにやるしかないと、そのためには”力”が必要だと、そんな気持ちで走ってきたように思う。

 

でも、たしかにそんなふうに違和感を感じて生きているし、大人たち(もちろん僕も大人)に物申したいことはたくさんあるし、人間ってどうしようもなく愚かだと思うんだけど、

そんな”こじらせちゃった”僕でも、自分の好きな大学院で学んで自分の好きな活動をして、気に入った人たちと気に入った場所で語り合って、それでいて毎日の飯にも困っていない。
僕のような人間は生きづらいコミュニティは確かに存在するけど、そうじゃないフラットなコミュニティに属することができているし、そういった世界を選ぶ権利と責任を僕は与えてもらっている。その自由がある。

 

これって、すごく素敵なことなんじゃないかって。

 

なんだかんだ結果的に好き勝手に尖りながら生きていける。これはとても素敵なことじゃないかと。

 

で、さらにね。

人間って、すぐに自分本位になるし、自分のことは棚に上げて他人の批判ばかりするし、思考が凝り固まって寛容さを失いがちだし、目先の利益ばかりに囚われるし、
それでいて、そんなどうしようもないけど賢しい連中が世間的には評価が高くて「え?」ってなることも多いんだけれどね。

 

「そんなもんさ!」って思おうと。

これは諦めでも妥協でもなくて、もちろん僕はそういうこの世の不条理を一個一個ぶち壊していきたいと決意を固めているんだけれども、

「そんなふうに不健全で不条理なことばっかりで、不器用な人たちが足掻きながらわちゃわちゃやってる、そのカオス感が面白いんだ!」って。

もうみんなが色々と理解しちゃって物事をわきまえちゃって、真っ当な言動ばっかりしてたら、それはそれでツマラナイよね!と。

 

わけわからんから面白いわけで、そんななかでわけわからんほどに尖って生きていけるのって、素敵だね!と。

 

...と、前向きな台詞を残しながらも、まだまだ世界に対して僕は物申していきたいし、だからって安全地帯から批判ばかりしている評論家にはなりたくはないので、「悩む前に行動!」「背負う覚悟を持て」の意識は常備していきたいと思ってるので、

今日からまた、

自分のやりたいように、背筋伸ばして歩いていくのです。

 

スマホの幻肢痛

突然ですが、

 

プッシュ音の幻聴

が聞こえたことはありませんか?

 

ブーブーとバイブ音が聞こえてiPhoneを手に取ると、

あれ?何の通知も来てない?

え、なに今の幻聴。。。?

 

この症状、スマホ依存症の僕だけかと思って今まで隠してきたんですけど、

僕だけではないことが最近わかって、

安心するのとともに、

 

スマホを手放せなくなるとはどういうことか”

という問いについて一考してみたいと思います。

 

スマホの身体化

iPhoneが壊れてしまって大変だった」

そんな話題は世間話レベルで聞かれる珍しくもない話ですが、

僕の友人はそこで「スマホって身体化してないかしら?」と考えたそうです。

 

スマホが身体?ただの依存症でしょ?

そういうふうに思われるかもしてないですが、

”人間がどのように進化してきたのか”を考えると、

ちょっと違った捉え方ができるかもしれません。

 

 

人間の最初のテクノロジーは”言語”や”火”の使用だと言われていますが、

最も想像に易い道具と言えば、旧石器時代”石器”でしょう。

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出典:https://janiasu.com/terms/subjects/04/02-1/cat78/post-185.php 

 

これが僕たちの道具の原点です。

日頃使っている包丁も鉛筆もカバンも、

今手に持っているスマホでさえも、

もとを辿ればこれです。石器です。

 

今まではかぶりついたり手で千切ったりしていた肉片を綺麗に切り分けたり、

硬くてなかなか割れなかった木の実を破ったり、

棒の先につけて動物を突き殺したり、

”石器”の発明でいろいろなことができるようになりました。

 

初めて”石器”を手にした若者たちを想像してみると、

「ヤバいこれイカししてるわ」

「お前のその石器、カタチやばくね?」

「ふん、その程度の石器で粋がるな」

...。

時代の最先端だったことは間違いありません。

それって、現代におけるスマートフォンと一緒じゃないでしょうか?

 

『道具は身体の延長である』という考え方が、最初に誰が言ったかもわからないくらい古くからあります。人間は道具をあたかも身体のようにして扱うことで進化してきたのです。

一番わかりやすい例は杖や義手など、身体の障害を補填する道具ですね。杖をまるで自分の手足のように扱っている人というと想像に難くないでしょう。

 

石器をまるで手足のように駆使して狩猟していた狩猟時代のように、

スマホをまるで手足のように駆使して生きるのが現代社会だと言えるんじゃないか?

道具が身体の延長であるのであれば、

スマホが僕たちの身体の延長として、身体化しているのではないだろうか?

そんな解釈も成り立ちます。

 

幻肢痛

事故などで腕や脚を無くした人々は、腕がなくなったあともそこに腕があるかのように感じる”幻肢”を感覚すると言います。

左腕がないのにも関わらず左手の甲に痒みを覚えたり、

右脚がないのにも関わらず右足首が痛み出したり、

失った感覚器官を脳が正常に処理できずに、あたかもそこにまだ四肢があるかのような錯覚を覚えるのだそうです。

 

失くした身体を感覚できないことで痛みを覚えるのならば、

もしスマホが身体化しているのであれば、

スマホという身体を失くしたことによって、幻肢痛が現れるんじゃないか?

 

スマホがないことによる何らかの”痛み”を覚えるのではないか?

それが僕の場合はプッシュ音の幻聴となって心身に現れているのではないか?

 

そう考えると、妙に納得できる節があるなと。

 

通知がないのに通知があると勘違いしてスマホを開いてしまうあの症状は、

手元にスマホがないことによる幻肢痛なんじゃないかと思うのです。

 

これは、単に僕がスマホ中毒者だっていう話ではなくて、、、

 

スマホがこれから僕たち人間の道具として浸透し、身体化が進むに連れて、

その幻肢痛も様々な症状として現れてくるんじゃないか?

 

つまり、

人間が新しい道具を生み出せば生み出すほど、

人間の身体は拡大していくわけで、

それに伴って幻肢痛も痛みを増していく。

これはもう、

「道具(テクノロジー)を利用した進化」と「道具の身体化」という性質を持つ人間という生物のジレンマなんじゃないかと思うわけです。

 

...。

 

...。

 

今日も存分にこじらせることができました。

 

 

 

 

 

自己紹介

はじめまして。


このブログを閲覧いただきありがとうございます。

イッチーです。

 

大学では工学と感性学を学び、

今はウェブ系の企業で働いています。

 

Twitterで吐き出しきれなくなった徒然なる思考メモを、

もっとちゃんとカタチにして可視化していこうとブログを始めました。

 

興味のあるテーマのときだけ読んでみてくださいね。

 

 

イッチー